そらみみ −空耳−




記憶




    だいすきだったひとは、お酒の調合をする人だった。
    一般に言うバーテンダーだ。
 
    本当にお酒が好きで、自宅の洋酒の数々を「こどもたち」と言い
    お酒をこよなく愛している人だった。
 
    そんな彼から私はお酒の話をよく聞かされた。
 
    私はお酒を飲むのは好きだが知識はなく、聞くことすべてが新鮮だった。
 
    洋酒の種類から、お酒が出来るまでの過程にはじまって
    カクテルの作り方や氷の削り方・・・
    言い出したらキリがないくらい、たくさんのことを彼から教わった。
 
    しかし、不思議なくらいそのほとんどを覚えていない。
 
    覚えていることと言ったら
    私が風邪をひいて、咳が何日も止まらなかったときに
 
    「トニックウォーターは、薬草からできてるから咳にも効くんだよ」
 
    と言って飲ませてくれて、本当に咳が軽くなったことと
    彼が以前勤めていたお店で、洋酒の瓶を一本づつ拭きながら
    まだ飲んだことのないお酒があると
    瓶の栓を開け、香りを香って確かめた、という話くらい。
 
    このお店は、彼がBarだと思って勤めだしたのだが、
    入ってみるとホストクラブまがいのお店で、数日で辞めたが

    「知らないお酒の香りを嗅ぐことができてよかった」

    と言っていたのを思い出す。
 
    彼と知り合ってから、私の飲むお酒の種類が増え
    いつの間にか、自宅のキッチンにはさまざまな洋酒の瓶がならんでいた。
 
    そんな洋酒たちも、彼とサヨナラをしてからはなんとなく
    キッチンから自室へ移動し
飲まれることもなく埃をかぶっていた。
 

    あれからどれくらい経っただろう・・・
    自室を整理しているとき、埃をかぶった洋酒たちがふと目に入り
    急にかわいそうになり、再びキッチンへ移動した。
 
    キッチンへ戻ってきた洋酒たちを
    「ごめんねー」と言いながら拭いてやり、以前のようにならべていく。

    ならべられた洋酒たちは、なんだかうれしそう。

    それからというもの、たまに瓶を拭いたりしている。

    瓶を手に取り、一本一本眺めながら
丁寧にゆーっくり拭いてゆき
    たまに気が向いたら、瓶の栓を開け洋酒を香ってみたりする。

    静かに流れてゆく時間・・・

    それが、心のずっと奥にしまい込んである記憶を
    たぐり寄せる作業だということに気づくのに
    そんなに時間はかからなかった。

    ほんの少しの痛みを覚えながらも、心地よい時間が流れる・・・。

 
 






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